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【Devチーム紹介_Vol.33】エンジニアマネージャー ベルチェこと岩崎さん

nozaki
2022/02/28

こんにちは!UI/UXデザイナーをやっております、じゃっきー🦀です!

今回は謎多き、今iCAREで要注目人物として名高い
橘べるちぇ先生こと岩崎さんにインタビューしてきました!
あまりの情報量にインタビュー初の前後編です!前編、楽しんでいってください🍵

※インタビューの際に、一時的にマスクを外して撮影を行なっておりますが、ヘルスケアカンパニーとして十分な感染対策を講じた上で実施しております。

出身〜学生時代

🦀ご出身は?
🦄長野県長野市です。山奥に住んでまして、小学校5年生までテレビの無い生活をしていたというぐらい、田舎生活してましたね。小学校に通う時は山を下りて、さらに山の脇を越えて、小学校まで片道2時間くらいかけて通っていました。6時くらいに家を出て8時15分くらいに着いていたと思います。冬になると、当時は長野も雪がたくさん降ってて雪で道が見えなくなるんですよ。それで一回通学中に山道で滑落したなんてことがありました。運良く犬の散歩をしていたおじさんが見ていて、雪の中に埋まっていった俺を救出するっていう事件があったりするぐらいです。

🦀最初から九死に一生スペシャルですね。
🦄九死に一生はいっぱいあるんですよ。小学校6年生の時にこっちに出てきたんですけど、住んでた山が大きな崖崩れというか地滑りに遭ってですね。波打つ地面を走って逃げたりしたことがあります。避難所生活は結構楽しかった思い出です。
それが長野から東京に出てくるきっかけになりました。最初は中目黒に引っ越したんですが、ド田舎から超都会に出てきて身の回りの環境が一変した感じでした。そこから中学卒業まで中目黒から渋谷近辺で生活してました。

🦀東京ではどんな学生生活を送ってらっしゃったんですか?
🦄学校にあまり行かなかったですね。中学生の頃はずっと本を読んでいました。学校の図書室に行って真面目なやつも不真面目なやつも読んでた。授業を受けてる時はずっと寝てましたね。好きなことしか出来ない、興味のあることしか勉強出来なかったんです。
小学生の頃は天気予報士になりたかったんですよ。気象予報士ってやつですね。
気象のことばかり勉強していて、でもミリバールからヘクトパスカルになった時に、「これ今勉強しててもダメだな」と思ってやめたんですよ。

🦀専門用語出てきた…ミリバール?ヘクトパスカル。。
🦄そうそう。気圧配置とかそういう感じのあれ。新聞とかに出てる天気図なんですが、昔は気圧の単位がミリバール(mb)で、等圧線の他に風力階級を表す矢羽根マークがあったんです。今は仕様が変わって、皆さんが見ている天気図は世界的な基準に合わせてヘクトパスカルっていうものに変わりました。それによってね、矢羽根マークとかも天気図から無くなっちゃって、ガクッと面白くなくなったんです。それで興味をなくしちゃって…で、ずっと絵を描くようになりました。真面目な絵から不真面目な絵まで。

🦀私も中学校の頃、馬の絵ばっかり描いてました。
🦄そうなんですか。馬が好きなんですか?
🦀馬の後ろ脚が好きで。
🦄ああ、わかります。
🦀何でもわかってくださいますね?
🦄長野にいた時、乗馬してたんですよ。
🦀え?どんな家?
🦄医者の家庭に生まれてですね。父親が医者だったんですけども、医者っていう肩書が良くなかったんですかね。周りもお医者さんばっかりだったので、乗馬クラブとかに連れて行かれたりとかね。色々あったんですけど。馬に乗るのが好きでした。
🦀セレブ...

高校〜就職

🦀高校は何系の高校に行かれたんですか?
🦄高校は工業系に行ったんですけど、辞めちゃったんですよ。本当は中学生の頃に家庭が貧乏だったので、高校には行かないと言ってたんですけど。どうしても行けと先生から言われたので、近くの工業高校に通ってました。
工業高校に通いながら、そのままじゃ生きていけなくてアルバイトをし始めたんですよ。そうしたら仕事が忙しくて学校に行けないことが多くなっちゃって。その頃、ちょうどWindows3.1が流行り始めたかなぐらいの時に、「仕事が忙しくて学校に来られない」って学校の先生に相談したら「じゃあ俺の知り合いの会社を紹介してやる」って会社を紹介してもらって。15歳、16歳の時だったかな。学校の先生のツテで、正社員で入社しました。

🦀16歳で正社員?!
🦄あはは。で、日本でAT互換機って言われる、今で言うWindows機があるんですが、AT互換機を輸入してたのが三社中の一社「ロビン電子産業」でパソコンを作って売ってたんですね。そういう会社に入って、秋葉原の店頭でマイクを持って「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」「そこのお兄さん、今パソコン安いよ」「これからはパソコンやらないと生きていけないよ」って言いながら、マイクでマイクパフォーマンスをしてました。高校生で。

まあそんなことをしていたので、思い切って高校を辞めて会社1本にしようと思ったんです。でもそうしたら会社の上司に「お前、さすがに高校は行っておけ」と言われて、結局通うことにしました。9時半から17時まで会社にいて、夜から定時制の都立高校にとりあえず通いました。会社で働きつつ、夜コンビニエンスストアでバイトして、本当に単純にお金が無かったから仕事ばっかりしてましたね。
その時にはもう一人暮らしで。昼間パソコン屋で仕事して、夕方から夜まで学校に行き、学校が終わるとコンビニで働いて、また朝になるとパソコン屋に出勤するみたいな生活をしてました。

🦀寝る時間が無い…
🦄寝る時間は、コンビニの休憩時間を3時間貰って、冷蔵庫の後ろに布団を敷いてそこで寝ていました。あと、パソコン屋は木曜日定休で、学校は日曜日休みだったんで木曜日と日曜日は少し休んでました。丸一日休みっていう日は無かったですね。

🦀キッツ。
🦄え、楽しかったですよ。この話をするとよく「かわいそう〜」なんて言われたりするんだけど、本人はめちゃくちゃ楽しかったんです。コンビニにいると、知り合いとか遊びに来てくれるんで。「元気?」なんて言ってね。中学の同級生とかも遊びに来るんです。「うぃーす」ってね。
楽しかったな。で、そのコンビニの常連さんの中に、パソコン屋にも来てる人がいたんです。最初は「あれ、お兄さん、中目黒のコンビニにもいるよね?」ってパソコン屋で声をかけられて、それがきっかけでよく話をするようになったんです。

そうしたら、その人が近所で紙のデザインをやってるデザイン事務所の人だったんですよ。そうしたら「パソコン詳しいならうちで働かない?」なんてコンビニで声をかけられたんです。趣味でパソコンで絵を書いたりしてたし、小学生の時からずっとカメラ、写真をやってたんで、デザインにも興味があったから、その誘いに乗る形でデザイン事務所に入りました。17歳になるかなくらいの時かな。

🦀「お前、やる?」「やるー!」みたいな感じですか?すごいな。
🦄そう。それで1年半くらい勤めていた昼間のパソコン屋と、コンビニも仕事が見付かったっていうので辞めて。そのコンビニから徒歩5分くらいのところにあるデザイン事務所に入ったんです。高校卒業するのと同じくらいだったかな。
いやぁ懐かしいね。ほんと仕事ばっかりしてて卒業式も仕事が忙しくて忘れてたくらいで。コンビニで寝てたら、「お前今日卒業式だぞ」って。「えー」っつって。バイクを飛ばして卒業式に行って、卒業証書を投げ渡されるっていう。そんな学生時代を過ごしました。

🦀濃いなあ。
🦄あ〜楽しかったなぁ。

デザイナーとして就職

🦄それで、デザイナーになり。デザインをそこで色々教えられました。そこが写真集とかを作ってる会社で、アイドルの写真集とか、雑誌とか色んな仕事があったから、カメラマンもやりました。それこそ澁谷の商業施設とか、ああいうところの店内に掲示する掲示板とかの写真撮ったりとかもしたし。「池袋行ってきて」って言われて、何だろうなと思ったらSMクラブ行ってお姉ちゃんの写真撮ったりとか。

🦀ちょっとそれ私、興味あります
🦄笑。メジャーな雑誌社みたいなところから依頼があってパッケージを撮ったりとかね。ちょっと大人向けな内容だけど、俺17歳で撮っても良いんですか?とか言ってたら「うーん…大丈夫じゃない?」とか言われながら撮ってました。

🦀濃いなあ。人生が濃過ぎる。まだ17歳ですよ。
🦄その時ちょっとおもしろくて、世の中が結構緩い感じでいろいろ回ってて、当時一部の業界で若いカメラマンがいるって結構有名になって。そしたらね、俺と同姓同名の有名なカメラマンがいるんですよ。で、その人に勘違いされることがあって、ちょっと事件になったことがありました。当時結構ベテランのカメラマンで映画の撮影とかしている年配の方だったので、年齢詐称!?みたいな言われ方したことがあったり。

🦀メインはカメラマンだったんですか?
🦄デザインも普通にやってましたよ。紙のデザインだとチラシとか広告、パンフレット、あとは雑誌のデザインをやりました。あとはその当時WEBっていうものが、「企業がみんな自分達のホームページを作るぜ」っていう時代の幕開けだった訳ですよ。なので企業サイトとか作ったりとか、コーポレートアイデンティティーって言って名刺だったりとか、会社の封筒とかね…、あとはイベントで出すもの…デジタルサイネージ、あの辺のデザイン、インターフェイスデザインとかをやってました。その当時デザイン事務所っていうと、割と色んなことやってたんですよ。今みたいに細分化されてなかったので。デザインはデザインだろ、みたいな。そこでは5年ぐらい働きましたね。

体調を崩しつつ、トラブルが続く20代前半

🦄そしたら、その時に身体を壊したんですよ。とにかく忙しかった。どのくらい働いてたかっていうと、一ヶ月の内3日ぐらいしか家に帰ってなかった。電気もガスも水道ももったいないから止めちゃってたくらい。そうすると大体大家さんから、月に一回くらい連絡来て「住んでますか?生きてますか?」って確認されるんです。
「生きてますよ〜」とか適当に返事して「郵便物いっぱいになってますからね」って叱られるみたいなのを4年半ぐらい繰り返してました。そしたら身体壊したんですよね、やっぱりね。自分ではあまりストレス貯めてると思ってなかったんですけど、すごく大きく身体を壊しました。ストレスで内臓が死んでたんですよね。肝臓とかもダメで、もう死ぬかみたいな。で、一年ぐらい働けなくなって「なるほど、あまり働くと良くないな」って思って、そこからそんなに働かなくなりましたね。

🦀良かった。良かった?かな。
🦄それから色々職を転々と。いろんな業種で働いてましたね。iCAREに来るまで10社以上は働きました。
🦀10社以上!?めちゃくちゃ働いてる
🦄色々転々としてて、並行してるのも含めたらそのくらいなのかな。
デザイン会社を辞めたのが20歳から21歳になるぐらいの時です。

身体を壊してから最初に行ったのはテレビ局だったと思います。俺の知り合いが「テレビ局辞めるから俺の代わりにやってくれ」って言われて。「は?」って思いながら行ったら、そのまま引きずり込まれちゃいました。あとは俺キーボード打つのが速かったから、ニュース速報、地震とか夜間の「緊急ニュースの時間です」みたいなやつのテロップをリアルタイムで打つ作業もしました。地震が起きるとめちゃくちゃ走って放送デスクまで行ったりして。それをやりながら、昼間はバイク便、夜はトラックの運転手なんかもやってた時がありました。

🦀シンプルに死ぬよ…。
🦄2年ぐらいやってたのかな。その時に一瞬、3ヶ月だったんですけど勤めていた会社もあったな。リハビリで。そしたらそこの会社、夜逃げしちゃって。出社したらフロア「がらん…」としてて、「は?」って。フロアの真ん中にコピー機一台だけ置いてあるんです。「え?」って。後ろ向いたら「ここの方ですか?」って。「え?」って思って振り返ったら見知らぬおじさんが立ってました。
結局その人はそこの大家で「ここ家賃が半年間払われてないんですけど、社長さんに連絡付きますか?」と言われて、「今、俺も途方に暮れてるところです」って返すしかなかったですね。
給料も払われてなくて、その前の月から給料遅れたりとかして怪しかったんです。2ヶ月ぐらい遅れてやべーなと思ってたら、夜逃げ。
🦀とんでもねえですね。

人生の転機と体調不良が続く20代後半

🦄WEBっていうのが普及してきてショッピングサイトとかアフィリエイトなんてのが流行り始めたころ、新宿にある通信事業社のショッピングサイトを作る人を探してる人がいたんです。知り合い付てに「手伝ってくれ」と言われて「じゃあ手伝いますか」って言って行ったんですが、それが小さな有限会社だったのね。いろいろやってるうちに、俺を誘った人もろとも、そのまま入社させられてました。

🦀何でいつも知らない間に就職してるの…。
🦄5年ぐらい働いたかな。通信事業社のショッピングサイトはショッピングポータルだったんだけど、そこのデザイン、企画、運営。記事も自分で書いてたし、メルマガも書いてました。メルマガで俺、占いまで書いてましたね。ダイエット記事から占いまで何でも書きます、って。

その会社にいる時に、色々本を書いたりもしました。パソコンの入門書とか書いたりとかしてた。初心者に分かりやすい本を書いてくれないかって言われて。
最初は雑誌だったんですよ。エンターブレインとかでね。それで、モバイル端末の改造記事を書いたりとか、おもしろ系記事を書いたりしつつ、当時あまりLinuxっていうのが普及してなかったんですけど、Linuxのインストールの記事を書いたりとか。プログラム言語の本を書いたこともありました。並行してデザインもやってましたよ。でも大概やっていたのは企画運営でしょうか。で、その会社を株式化しようっていって、「株式化の資金調達どうしようか」みたいな話があって。「株式化の資金調達は出来ないから、おもしろいことして稼いで」って言われて。某有名ゲームで利益を上げ、株式化をするなんてことも体験しました。

🦀えっ、某有名ゲーム!?えっどういうこと??
🦄色々あるんですよ。うーん、そんなに詳しく言えないやつだった。
で、株式化やって。またちょっと身体壊したりとかしたんですね。25~26歳ぐらいだったかな。その時に結婚したんですよ。身体を壊して、女房が俺の世話とかをしつつ。そこからまた転々としました。何の仕事やってたかな〜くらいの、フリーランスみたいな感じで…色んな雑誌のデザインやったりとか、あとは企画協力とかね。コンサルティングみたいなのをやったりとか。

でも、28の時に不動産屋で働き始めたんですよ。
元々不動産好きで、よく競売物件とか見に行ったりしてたんですね、趣味で。東京地方裁判所に足繫く通い、色んな不動産屋に交じって20歳そこそこのガキンチョが競売物件を物色しているみたいな。
不動産屋はね、身体を壊した後だったからちょっとリハビリっぽい仕事をしようと思って、職安に紹介してもらった就職先なんですよ。時間にきっちりしてて残業が無い会社が良いっていってね。1年いかないくらい不動産屋で働いて、収入も厳しかったんで、船橋にあるデザインの会社に入ったんですが、そこではデザインやWebサイトの作成とかしながら、ちょっと悪いエンジニアをやらされてました。

🦀何だろう。悪いエンジニアって
🦄まあ、秘密なんですけど。最初は時給1000円のアルバイトで入りました。そしたらそこのデザインチーム、デザインの部署があって、デザインを色々教えてたら入って3ヶ月ぐらいで正社員にさせられて…。

🦀また入社させられている。
🦄で、40人くらいのデザインチームの部長になり、若い子たちにデザイン教えてました。いろいろとサイトを運営している会社で、43サイトくらいを運営してましたね。
1年半年くらいそこで働きました。そこの会社は勢いがあって、月収で13億ぐらい売上をあげる会社だったんで大変でした。で、その会社のオブザーバーっていう立場になったんだけど、どんどんあまりよろしくないことをやり始めたから、「やべーな」と思って転職しました。
その時、以前の通信事業所の仕事をやっていた会社に戻ったんですよ。身体壊して辞めてるから別にケンカ別れじゃなかったですし。そこで、オークションが流行った時にオークションサービスの立ち上げを手伝ってくれって言われて。その時にジョインしたんですよ。一応役員として入ってました。

エンジニアへの一歩を踏み出した30代~40代

🦄そこからしばらくしてまた転職して、知り合いのところの経営コンサルティング会社で適当に働いてたんですね。そこが人手が足りなくて求人したいっていうから転職サイトを見てたら、ふと自分の家の近くにある一軒家の写真が出てたのね。求人募集しようと思って来たはずなのに、その家の写真見て「え〜おもしろいじゃん!」って、ペイって応募しちゃったのね。

🦀え?なんで??
🦄「うちから歩いて80秒じゃん!」みたいな。それが初めてのITエンジニア。闇エンジニアの時はどっちかって言うと、デザイナーとプランナーだったんですよね。それが30歳の時。そこで副業せずに5年間エンジニアをやり、SIerっていうのかな。メールサーバーとかファイルサーバーとか構築して売る仕事をしていて、そこの会社で趣味ではなく本格的なインフラエンジニアとしての勉強をしましたね。
そんな中、Linux-HAっていう高可用性システムのコミュニティサイトを立ち上げて、コミュニティ活動をしていたんですが、それがきっかけで馬場さんに出会いました。

🦀技術顧問の馬場さん!
🦄ハートビーツっていう会社で勉強会をやっていて、ハートビーツの代表の藤崎さんがTwitterで話かけてきて、勉強会でLinux-HAの話をしてくれないかと言われて登壇したんです。それがきっかけで馬場さんと知り合いました。
そうしたら藤崎さんが「これからゲーム事業をやるんだ」なんて言ってて、「へー、ゲームやるの。俺ゲーム好きなんだよね。行こうかな。てへ。」みたいなノリでハートビーツに転職しました。で、馬場さんがCTOで、一緒にゲームのインフラをやっていた訳ですよ。で、その時に担当していたゲームが、石野さんがいたマーベラス。10タイトル以上担当しました。そのインフラチームのゲーム事業をやっていたチームのチームリーダーとして俺がいた訳ですね。ハートビーツでは5年くらい働いたかな。

まあでも色々あって、その時に秋葉原の近所のゲーム会社で人を求めてるっていうので、営業部のマネージャーとして転職しました。それでVRとかやってたんだけど。そこには一年しかいなかったんですよ。まあでも、いろいろあって辞めるって決めた15分後にfacebookで「辞める」って書いたら「うち来て」ってメッセージが来て、「あ、じゃあ行く」って言って。転職することになったんですよ。

🦀その転職先ってすごい大きい会社ですよね?前職の。
🦄澪標アナリティクスってね。大きなグループ関連会社って感じです。最初は営業で入ったんですが、6名程の開発チームを管理して欲しいということで、営業活動しながら、開発チームのマネージャーをしていました。開発チームではマネージャー教育も行っていて、後継者が育ったので、開発チームのマネージャーは開発チームの中から任命をして、40人程の分析チームのマネージャーになりました。採用も進めて私が辞める頃には70人以上になりましたね。80人くらいになったかな。

🦀何で出世しちゃうの?
🦄分かんない。
🦀そしてそこから何でそこからうちに来たんですか?
🦄石野さんが来てって言ったから?
🦀ヒェ〜〜。ってもうお時間になってしまいました...
🦄俺のiCAREへの熱い思い、まだ全然話せてないな。
🦀そうですね、後編でぜひ語ってください!

〜〜〜後編へ続く〜〜〜